「もしも君の推しと、俺が川に流されていて、どちらか一人しか助けられないなら、どっちを助ける?」
好きな歌手のことばかり話している時、夫が私に尋ねた。
以前は面白がって「推し」という言葉を使っていたが、ここ最近は自分の中で色々と思うことあって、全くではないけれど、あまり使わないように意識していた。「推せる」とか「推していく」とか動詞で使うなら全く問題ない。しかし「推し」という言葉を自分よりも10歳以上も年上のシンガーソングライターに使うのは、うまく説明できないのだけど、なんとなく違うような気がして、ためらってしまう。他人が「推し」というのは、全く気にならないし、好きに使えば良いと思う。
(注:私は55歳のシンガーソングライター以外にも、ハロプロも好きなので、「誰推しですか」と言われたら、めちゃくちゃ喜んで答えますよ)
今日のブログでは、夫婦の馬鹿馬鹿しい会話に私の好きな歌手の名前を出すのは、本人にも、ファンの方々にも大変申し訳なく感じるので、「推し」という便利な言葉をあえて使わせてもらいたい。
で、「川に流された推しと夫、どちらを助けるか」という夫の質問に対する私の答えは、「夫を助ける」というものだった。
推しは、私が助けなくても他のファンが助けてくれるかもしれない。だが、夫には大した人脈がないから私が助けてあげるしかないのだ。それに家族だから当たり前じゃん。
「じゃあ、推しが君のことをなぜか認識しているとしたら?」
「それでも私は、愛する夫を助ける」
「ふつうは推しを助けるんじゃないの?」
私にとって、推しを助けるメリットってなんだろう。推しを助けたら、一時的な幸福感は得られるだろうし、社会的にも大きな影響を与えるかもしれない。彼のたくさんのファンも喜ぶだろう。だけど夫が出会うずっと前から、その人のことを応援しているくせに、よく考えたら、私自身はその人のこと、ぜーんぜん知らなかったりするんだよね。妄想なら、いくらでもできるけど。推しが私のことを知っていたとしても、夫と私が2007年から築いてきた絆には勝てないと思うし、今日みたいな馬鹿馬鹿しい会話もできないと思う。夫は私の良いところも、ダメなところも知っていて全て受け入れてくれるけど、推しにはそれができるだろうか。
「じゃあ、推しが犬を抱いて流されていたら?」
…面倒臭い。真面目に考えるようなことではなかったのかもしれない。夫は、どうしても私に「推し」と答えさせたいらしいので答えてやった。
「わかったよ!!!推しと犬を助けるよ!!!」
40代夫婦の馬鹿馬鹿しい会話に推しを登場させることを、本当に申し訳なく思った。
(それにしても便利だね、推しって言葉)
今日、夫とドライブしながら二人で推しのCDを聴いていた。最近のコンサートは、いつも私一人だけど、昔みたいにまた二人でコンサートに行けたらなあと思う。息子もついてきてくれるといいなあ。
川には流されたくないワン